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講師プロフィール

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○奥田真史(おくだしんじ)
○奈良県生まれ
○明治大学政治経済学部卒
○資格合格実践会代表
○中京学院大学スポーツマネジメントスクール修了
○日本メンタルヘルス協会基礎心理カウンセラー
○危険物取扱者インストラクター
○エックス線作業主任者インストラクター
○衛生管理者インストラクター


○取得資格
・危険物取扱者甲種及び乙種第四類
・エックス線作業主任者
・衛生工学衛生管理者
・第一種衛生管理者
・毒劇物取扱者
・高圧ガス製造保安責任者乙種化学
・有機溶剤作業主任者
・甲種防火管理者
・普通救命講習Ⅰ修了など




―幼少時代―

私は、貧乏でも裕福でもない、一般的な家庭に生まれた。
3歳のときに肺炎、おたふく風邪を患うなど、どちらかと言うと体が弱い方だった。(この頃から病魔とは縁があったのか、後に大変な事に...)
5歳になり保育園に入園。
いきなり、知らない所に連れて来られて、捨てられるのかと思ったが、違うことが判明し、すぐにみんなと仲良くなった。
初めての集団生活の中で、早くもグループ内に上下関係があることを知った。
当時、砂場で山を作るのが流行っていた。 私も、砂で山を作りたかった。
しかし、1歳や2歳からいる園児には、何も言えず、私はいつもバケツに水を入れてくる係りだった。
それがイヤで、休憩時間になると逃げ出したことも、一度だけではではなかった。
「僕も、山を作りたい!」と言い出せない、子供ながらに気を遣ってしまう性格だった。




-小学生時代-

小学校に入って1年の時に、またしても肺炎をこじらせて、入院する事になった。
1週間ほどで、すぐに退院したのだが、一生このような病魔と過ごさなくてはいけないのかと、内心不安を感じていた。
しかし、その後バリバリとご飯を食べて、一気に体が大きく、丈夫になっていった。
あまりにも早すぎる成長に、自分も周囲も驚いたが、恵まれた身体のお陰で運動だけは得意であった。
私は、小学生高学年の時、陸上クラブと、相撲クラブに所属していた。
陸上クラブでは、5年生と6年生の時、市の大会で走り幅跳び2連覇。
県の大会では4位になった。
相撲クラブでは、5年生の県の大会で個人戦優勝、団体戦では3位。
6年生の時には、市の大会の個人戦、団体戦ともに優勝。
県の大会では、個人戦で3位、団体戦で優勝した。
小学校の卒業を迎えるころには、身長が170cmくらいあった。
卒業アルバムを見ても、身体つきだけは、明らかに“生徒”ではなく“先生”である。

スポーツ大好き少年ではあったが、文科系の習い事もしていた。
書道教室である。
1年生から6年生の6年間通った。
それでどうだったかと言うと、一応、毛筆“3段”、硬筆“2段”になっていた。
ところが、字がうまいかと言うと、全くそんな事はない。
たまに、自分で書いた字が読めないくらい下手くそである。
もちろん、人が見ても読めたものではない。
別に、上級者がやる“崩し”をやっているわけではない。
勝手に崩れているだけである。
実は、その書道教室は、9級から始まって、年齢を重ねるごとに勝手に段位が上がっていくシステムだったのだ。
6年もやれば、誰でもそのくらいの段位にはなる。
むしろ、5段程度になるのが普通だったようだ・・・




-中学生時代-

中学に入り、塾通いすることになった。
また、そこでフィールドホッケーというスポーツに出会う。
当時、サッカーJリーグが始まってすぐの頃であった。
しかし、私の中学校には、サッカー部が無く、フィールドホッケー部があったのだ。
どんなスポーツかと言うと、アイスホッケーをサッカーのような、芝の上でやるスポーツである。
私は、このスポーツに没頭した。
やれば、結果がでるのが楽しかった。
よく、大学スポーツで人気のあるラクロスや、ゲームセンターにあるハイパーホッケーや、インラインスケートを履いて行うインラインホッケーと間違えられる事があるが、別物である。
私の中学校は、過去に一度だけ全国中学校大会で、優勝した事がある学校で、練習は厳しかった。
夏休みや冬休みは、全て練習の時間に費やされた。
そんな中、塾にも通っていたため、一日のスケジュールは、結構ハードなものだった。
学校へ行き、授業が終了したら、練習が始まる。
3時間ほどの練習を終えて、その足で電車に乗り込み塾に行く。
帰宅時間が夜の10時、11時になる。
これを、3年生まで続けた。
3年生の時に、誰にでもあるように、進路を決めなければならなかった。
私は、そのままフィールドホッケーを続けるのか?それとも塾通いで培った事を活かして、少しでも偏差値が上の高校を目指すのか?を決めなければならなかった。
私に、迷いは無かった。
即ホッケーを続けるために、県下で最もフィールドホッケーが強い高校に、入学する事になった。




-高校時代-

フィールドホッケーが好きで高校に入学したものの、やはり中学校以上に練習は厳しかった。
練習が終わって帰宅するのは、夜10時ごろになった。
もちろん夏休みも、冬休みも全て練習である。
特に、高校一年生のときは、色々と規則があり厳しかった。
まず、言葉遣いや、挨拶について叩き込まれる。
中学校までは、タメ口だった先輩に、高校に入った瞬間、敬語を使わなければいけなかったので、非常に違和感を感じた。
もちろん、先輩の言う事に対して“NO”の文字は無い。
全て“YES”である。
この世界では、「犬」のことを、「猫」と言われても正しくなるのだ。

他にも、色々な規則が存在した。
「まず、1年生は“白ブリーフ”で生活するべし!」
1年生は、下着に白ブリーフしか履いてはいけないのだ。
私は、もともとブリーフ派だったので、抵抗はそれほど無かったが、同級生の中には意地でもトランクスを履いてきていたヤツがいた。
部活の時間になったらばれるので、部活が始まる前にトイレで白ブリーフに着替えるのである。
今思うと、「なぜ、白ブリーフなんだ?」と不思議に思う。
このような規則が、他にもたくさんあって笑ってしまうが、当事者は必死であった。
規則を破った1年生がいると連帯責任で、先輩たちの指導が入るのである。
特に、目を付けられると、部室裏の薄暗い方に、連れて行かれたりするのである。。。
まあ、全てが今となっては、良い思い出である。

さて、高校生活中はこのような感じで、本当に部活漬けの毎日を送っていた。
勉強に関しては、はじめだけ良かった。 中学校時代の塾通いの貯金があったからだ。
しかし、その貯金も使い果たして、学力は低迷していった。
2年生からは、コースが選択できて、普通コース、数学コース、英語コースの3つから好きなコースを選ぶ事ができた。
しかし、数学は嫌いだったので、数学と理科の授業がない英語コースに行った。
この選択が、数学と理科の学力を、高校1年生で終了させる選択となってしまった。
英語は、好きな科目だったのだが、英語コースに進んでから、あまりにも英語漬けになり、逆に英語嫌いになってしまった。
もう、こうなったら、手はつけられない。
その学校では、試験が行われるごとに、クラスの順位が出るのだが、はじめは、ドンドン下がるクラスの順位を見て悔しかった。
しかし、途中でもうどうでもよくなり、自暴自棄になっていった。
そのショックで、非行に走りかけた時もあった。
しかし、良い友人に恵まれたお陰で、どっぷりと非行に浸かる事は無かった。

もう、理数系もだめ、英語も嫌い。
しかし、部活は続けたかったので、大学へは行きたかった。
この時、私の学力は数学、理科ともに偏差値30台という悲惨な状況になっていた。
偏差値は50が平均であるから、話にならない。
これでは行ける大学も、限られていた。
そこで私は、スポーツ推薦で進学する事を決意した。
勉強は堕落していたが、部活は一生懸命やっていたので、チームみんなで力を合わせて結果を残す事はできた。
全国高校選抜大会では、準優勝1回、3位が1回。
インターハイでは、3位が1回。
近畿大会は、3連覇していた。
そして、私は3年生の時に、高校全日本代表に選出され、スペインへ遠征試合に行った。
その実績を引っさげて、W大学のスポーツ推薦を入試した。

W大学のスポーツ科学部に入って、フィールドホッケーを続けながら、スポーツの栄養学や心理学、教育学について学んでみたかった。
しかも、W大学の4年生でキャプテンをしていた人が、卒業するとそのポジションが空くので、私が入学したらレギュラーになる可能性が高かった。
先輩からも、「そのポジションを空けて待っている。」と言われていた。

W大学の受験は、一般常識テストと小論文、そして面接がある。
まず、過去の実績から書類選考で、ふるいにかけられる。
そして、実際に受験できるのが、100人程で、合格するのは40名くらいである。
私と同級生の受験者が、全国から応募した。
私を含めて、4人のフィールドホッケー部員がスポーツ推薦で受験できる事になった。
その4人の中で、私は高校時代の実績が一番良かったので、少し天狗になっていた。(後に悲劇が起きるとも知らずに・・・)
私は、小論文と面接の練習を繰り返した。
高校の先生にかなり手伝っていただき、迷惑もかけたが、小論文もうまく書けるようになり、面接も人並みにはできるようになった。

ところがである、入試直前2日前に、ウィルスに侵された。
39度を常に超える高熱、顔には水疱ができ、口内炎が口の中全体に広がった。
水を飲む事も苦痛で、一切何も食べる事ができなかった。
即刻入院しなければならなかった。
医者には、こう言われた。
医者「まずいな、血液検査の結果、血中のウイルス量がとてつもなく多い。今すぐ入院だ!」
私「えっ?!ニュウイン?いや、それは困ります。あさって大学の入試試験があるんです。」
医者「バカヤロウ!!脳にウィルスが入ったら、脳炎にかかって死ぬかもしれないぞ!」
私「えっ?死、死ぬんすか?」
医者「・・・・・」
私「でも、僕どうしても受験したいんです!先生、何とかしてください!お願いします!お願いしまーす!」
医者「・・・(看護婦さんを呼んで)抗生物質と点滴の準備をしてやってくれ!」
私「ありがとうございます。(よし。これでなんとか受験できるぞ!)」
それから、5時間かけて、点滴を3本、体に流し込んだ。
意識が朦朧とする中で何とか、帰宅し安静に過ごした。

そして、受験当日を迎えた。
一般常識テストと、小論文を終え、最後の面接に向かった。
このとき、学生服の内側は、汗びっしょりだった。
受験月は、11月で外気温は、そんなに高くない。
しかし、高熱が収まらず、試験会場で1人だけ汗が噴出していた。
高熱及び体調不良と戦いながら、なんとか最後の面接を終えた。
しかし、このとき私は、重大なミスを犯してしまっていた...

それは、翌日の結果発表で明らかになった。
結果は、見事“不合格!”
不合格の理由は、面接で面接官とこのようなやり取りがあったからである。
面接官が、次のように質問した。
「部活動と学業だったらどっちをがんばりますか?」
相手は、名門W大学の面接官である。
普通だったら「文武両道でがんばります。よろしくお願いします。」
このように言えば、問題ない。
しかし、私は高熱で頭がボーっとし、水は満足に飲めない、食事もとれない、そんな状況が続いており、思考能力はゼロに近かった。
私は「ハイ!部活動です!」と条件反射で即答してしまった。
面接官は「君は正直者だねぇ!」と言って爆笑!
私は、それに対して「ヨッシャ!笑いを取ったぞ!」と、勘違いしていた。
重症である。

不合格を知って「世の中バカ正直に生きては、いけないのか?これが大人の本音と建前の世界なのか?」
このように何度も、自問自答した。
しかし、そんな事を思っていても、もう後の祭りである。
そもそも大学は、勉強をするところである。
そんな事すら、まともに考えられない状態だったのだ。
「もっと、体調管理に気を使っていれば、こんな事は起きなかったはずだ。」とも思ったが、病気のせいにしても始まらない。
結局自分が甘かったのである。
受験をナメていたのだ。
気合が足りなかったのだ。

ちなみに、私と一緒に受験した、フィールドホッケー部の受験生は、私以外全員合格した。
落ちたのは、私だけだったのである。




-大学時代以降-

その後、猛勉強して、大学に合格。
なんとか、フィールドホッケーを続ける事ができた。
ただ、学部は政治経済学部という、スポーツ科学とは縁遠い学部であった。
しかし、大嫌いな理数系科目を勉強する必要が無かったので、嬉しかった。
そして、3年生の秋ごろ、就職について考えなければいけない時期になった。
私はこのとき、ふと思ってしまった。

「このまま同じ枠の中に収まって生きる人生で、いいのだろうか?なんかそれって、つまらない人生、かっこ悪い人生なんじゃないんだろうか?」
「そうだ、違う分野に飛び込んでみよう!よし、この際、避けてきた理系の分野の会社に、就職しよう!」

そうしてついに、文系の世界から外に一歩踏み出す事になった。
財閥系化学事業所に入社したものの、最初は、文系人にはわからない理系の世界に四苦八苦した。
このままではいけないと思い、自己嫌悪に陥りながらも、独学で自己啓発の勉強を始めた。
速読講座、成功哲学講座、心理学講座などを修了し、脳科学・教育関連書籍を多数読破した。
そして、オリジナルの資格勉強法を構築する。
それ以降、オリジナルの資格勉強法で、受験する全ての資格に一発合格してきた。

化学事業所に勤務中は、産業用資材の品質検査及び品質保証を主に担当する。
そんな中、事業所の増収増益に毎年貢献し、グループ表彰された。
その後、新規機能材料において、ISO取得のための土台構築を担当し表彰される。
業務は多岐に渡るが、危険物取扱業務としては、各種薬品を用いた環境分析、各種有機溶剤の管理・保管・廃棄、安全対策の調査と実施などを行う。
また、エックス線を使用する業務については、蛍光エックス線分析装置による微量元素分析、及びエックス線回折装置による製品結晶化度分析などを行ってきた。
そのほかに、衛生管理関係では、有害放射線、特定化学物質、有機溶剤などを取扱う業務、グループ内の健康づくり活動を行ってきた。
当事業所に4年間勤務した後退社し、現在は資格合格実践会の代表、兼インストラクターを務め、多くの人にオリジナルの資格勉強法を伝授し、今に至る。

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